ヘブル2章
2:1 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
「こういうわけで」と記し、一章の内容を受けて勧めています。そこには、初め御子によって語られたことが記され、御子は、御使いに優る方であることが記されています。御子によって語られたことをしっかりと心に留めるように勧めたのです。
ヘブル人の直面していた問題は、既に聞いている教えから離れようとしていたことです。彼らは迫害に会っていたことが記されています。そのような中で、聞いたことを心に留め、外からの圧力に対して押し流されないようにしなければならないのです。
困難の中で堅く立つためには、「聞いたこと」と記されている御言葉に心を留めるのです。
2:2 御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、
2:3 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
その聞いた御言葉は、御使いを通して与えられた律法と対比されています。律法によるならば、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのです。
しかし、聞いた御言葉は、「こんなに素晴らしい救い」をもたらします。それを蔑ろにして処罰を逃れることはできないのです。
この救いは、単に永遠の滅びからの救いだけではありません。来るべき世の相続を指しています。しかし、ヘブル人に関しては、特殊な事情の中にありました。彼らは、迫害の中での行動によって、イエス・キリストを主とする信仰自体を失う危険があったのです。彼らが、迫害を避けるためにユダヤ人社会に戻リ、律法の行いに戻ることは、イエス・キリストが主であるという信仰を捨てることになります。律法は、写しと影であるからです。
彼らは、律法に従うユダヤ人社会の中に住んでいたのです。まだ、神殿は存在していました。律法に基づく儀式が行われていたのです。ユダヤ人社会に戻ることは、その儀式を行うことになります。ユダヤ人社会に戻ることで、彼らは、自分では意図しないとしても、信仰を捨てることになるのです。
このことに関して、話が長くなりますが、これは、彼らが聖霊を受けたときの出来事に深く関係しています。
使徒
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
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ユダヤ人たちは、悔い改めてバプテスマを受けることで聖霊を受けました。これは、今日信じて聖霊を受けることとは順序とは異なります。彼らは、悔い改めなければなりませんでした。それは、ペテロの直前の言葉に記されているように、彼らは、ユダヤ人に遣わされた救い主を十字架にかけた罪があるのです。まず、その罪を認め、そこから離れるのです。彼らが、イエス様を十字架につけたという罪が赦されなければならないのです。イエス様を十字架につけた罪を認め、そこから離れる証しとしてバプテスマを受けるのです。そうすると、罪を赦され、聖霊を受けるのです。それは、同時に、イエス様を十字架につけたユダヤ人とは一線を画すことになります。彼らの救いは、悔い改めという行いが前提条件となっています。彼らは、行動によってその信仰を現すのです。これが当時のユダヤ人の特殊事情です。
なお、今日、求められていることは、信じることです。悔い改めは、信仰を持って救われることの前提条件ではありません。当然、信じた者は、もはや以前の汚れた生活をしない歩みに導かれます。それで、バプテスマを受けることで公にその歩みを変えるのです。なお、信仰を持つ前に悪い歩みを止めることは良いことですが、悔い改めは、信仰によって救われることの前提条件ではありません。ザアカイは、だまし取ったものを返し、貧しい人々に施しをしますと言いましたが、それは、彼が救われるための悔い改めではありません。イエス・キリストを信じたので、正しい、良いことをしようとしたのです。それは、彼が信じたことの証しにもなっています。それを受けて、イエス様は、ザアカイに救いが来たことを証しされたのです。
今日、信じた者は、救いを失うことがないと言われることがありますが、この時代のユダヤ人に関しては、当てはまりません。彼らは、聖霊を受けたのです。しかし、行いで信仰を否定しようとしたのです。彼らが意図しなくても、彼らの行動が彼らの信仰を否定することになったのです。迫害の中で踏みとどまるという行いは、大きな困難が伴いますが、その行いが彼らの信仰を決定するのです。
さて、御使いを通して与えらた律法によって、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのです。それと対比して、彼らに与えられた救いは、三位一体の神の業として与えられたのであり、遥かに価値があるものです。それをないがしろにするならば、処罰を受けるのです。それは、はじめ主によって語られました。そして、それを受けた人々が証ししました。
一章に記されたことは、御子の優位性です。御使いに遥かに優り、神と本質を同じにする方であることです。御子によって打ち立てられたこの救いがいかに優れたものであるかを示すことで、ヘブル人を信仰に踏みとどまらせようとしたのです。
2:4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。
神は、それが確かなことであることを示すために、力ある業によって証しされました。また、聖霊が与えた賜物を通して、聖霊が働きをなし、証しされたのです。
2:5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。
「というのも」と記され、一節から四節までの内容の説明になっています。ここでは、救いはのちの世を相続することが記されます。
三位一体の神が証しされた理由は、来るべき世を御使いたちに従わせたのではないからです。救いを受けた人たちに相続させるためだからです。「救い」は、御国の相続のことを指しています。それは、御国において報いを相続することです。
「御使いたちに従わせたのではない」の動詞はアオリスト直説法で記されています。それは、過去の決定です。もう確定していることです。
2:6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。
2:7 あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
2:8 万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
この引用聖句は、直接的には、人についての言葉です。ですから、御国の支配は、御使いにはよらず、人による支配であることを示しています。すべてのものが信じた者の下に置かれるのです。
そして、八節の後半からは、話は変わり、苦しみの中に歩み、栄光を受けられたイエス様の模範が示されています。ヘプル人が苦しみの中におり、栄光を目指して歩んでいるように、イエス様は、すでにその経験をされたことが記されています。
2:9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
ここからは、この聖句に当てはまる一人の方について証しし、信じる者も同じようになることを示しているのです。また、その方が死の苦しみを受けたことも示すことで、迫害の中にある信者がその模範を見て、堅く立つことを期待しています。
そのかたは、わずかの間、御使いよりも低くなられ、人として歩まれました。イエス様は、死の苦しみを受けられましたので、栄光と誉の冠を受けられました。
ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
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キリストが父の右の座にあげられ栄光と誉の冠を受けられたのは、十字架の死にまでも従われたからです。ヘブル人も苦しみの中にありました。しかし、自分を捨てて、神の御心を行うならば、栄光と誉を受けるのです。イエス様は、その完全な模範を示されました。
その死は、神の恵みによって味わわれたものです。恵みは、神がイエス様に好意によって備えた祝福です。イエス様が栄光と誉の冠を受けられたことを指しています。そのために死を味わわれたのです。ヘブル人にも神の恵みとして苦しみが与えられていることを覚えさせました。それは、大いなる栄光につながることです。
そして、その死は、すべての人のために味わわれたのです。利己的な動機ではなく、愛による業であったのです。ヘブル人を祝福に与らせるために味わってくださったのです。
2:10 (なぜならば)多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。
万物の存在の目的は、神の栄光のためです。すべての者が神の御心を行うことで完全な者とされることで、神の栄光が現されるのです。そのために万物を存在せしめたのです。人を完全な者にするために全能の力を働かせておられます。そのための手段として、彼らの救いの先導者を苦しみを通して、到達点に達せしめたのです。これこそ神の方法です。神にふさわしいことであるのです。十字架の死によって愛を示し、信者をさらに信仰に導かれます。その歩みは、肉にはよらず、信仰により肉に死に御霊による歩みへと変えます。そのとき、神の御心を行うことができる者になり、御心を行うことでもたらされる完全さへと到達させるのです。
そして、全てのものを信者の支配下に置くことで、信じた者たちは、栄光を受けます。永遠の報いを相続させるのです。ここでは、多くの子たちと表現されています。子であり相続者なのです。
イエス様に関しては、その先駆けとして、多くの苦しみを通して完全な者にされたのです。父の関心事は、御子です。その先導者としての御子を到達点に達する者とすることで最高の栄誉を与え、神の御心に適っていることを示したのです。万物の前に、御子の栄光を示すことは、万物の存在の目的です。その完全な模範者を先導者としたのです。
なお、完全なものになることすなわち到達点に達することは、不完全なものが完全にされることを意味していません。未経験の領域を経験し、その中で御心を行い、御心を満たしたので到達点に達したのです。
・「創始者」→他の多くの者の先駆者。先導者。行列の先頭。
・「完全にする」→到達点に達する。
2:11 (なぜならば)聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
その理由は、聖とする方も、聖とされる者たちも、皆父から出ているからです。御子を長子とし、続く者たちも同じように聖として栄光を与えようとしているからです。
イエス様が苦しみを受けて全うされたことと、信者が苦しみを受けて全うされることは、直接的には関係のないことですが、共に苦しみを受けて全うされることは、父から出たことです。イエス様を通して聖なるものにしようとする働きの目的に適っているのです。愛を知らせ、模範を示し、憐れみ深い方となるためです。
それで、元が一つなので、イエス様は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥としません。同じ父にある信仰者なのです。
2:12 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」
主は、直接兄弟たちと呼びかけています。
2:13 また、「わたしはこの方に信頼を置く」と言い、さらに、「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」と言われます。
「わたしはこの方に信頼しているし、また信頼されている。」子たちを披露しているのは、神が下さった子たちとして誇りとしているのです。
・「信頼を置く」→中態。また、動詞の表現は、過去の状態が継続していることを表す。
2:14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
イエス様が血と肉を持たれた理由が示されています。それは、「子たち」と呼ばれる信者が血と肉を持っているからです。
血は、命として肉なるものに与えられています。これは、肉の命の比喩になっています。すなわち、肉の欲の実現としての命の比喩です。罪の宥めのためには、血が要求されます。イエス様の血は、神を宥めるものとして捧げられました。それは、肉の命に歩まなかったことを表しています。
肉は、肉体のことですが、肉体は、その機能として欲を持つものです。欲によって行動する肉の比喩になっています。そのために罪を犯すこともあります。イエス様は、肉を持たれましたが、完全であられたので、身代わりの宥めを行うことができます。
また、その血を流すことで、愛を示し、それによって働く信仰に生きるようにされます。そして、ご自身肉を持たれましたが、一切肉にはよらず、聖霊によって御心を行われた模範者であり、肉に歩まない根拠を与えたのです。
主は、その「死」によって「死」の力を持つ者、すなわち、悪魔を無力にしました。また、「一生涯→その全てのそれ(→事)、すなわち悪魔の力による働き」を通して死の恐れの中にに生きている人を開放し、自由にします。
この死は、信者に関して使われています。神の前に肉により生きて、実を結ばない状態です。信仰のゆえに永遠の滅びに入ることはありません。悪魔は、信者を誘惑して、罪を犯させ、死の状態にしようと常に働いているのです。そのような歩みは、神に喜ばれないし、信者の内に喜びはありません。実を結ぶことはないのです。また、永遠の資産としての報いもないのです。大きな損失です。それは、信者にとって恐れなのです。肉を喜んでいる人は、恐れとは思わないかもしれませんが。
キリストの死は、その悪魔の力を無力としました。キリストの死によって、信者は義とされています。罪を犯しても、執り成しておられる方がいます。その罪を咎められることはありません。告白するならば、神との交わりを回復できます。そして、キリストが私たちの内におられて業をされます。聖霊に満たされて歩むことができるのです。悪魔は付け入ることができません。さらに言うならば、私たちの内に住まわれる方は、肉にはよらず、聖霊のよって歩ましめ、神の御心を全うされる方なのです。
なお、この恐れは、肉体の死に対する恐れではありません。信者には、そのようなものはありません。
・「滅ぼし」→完全に、働かないようにする。無効にする。悪魔自身を滅ぼすことではなく、死の「力」を無効にすること。
・「一生涯」→「全てのそれ」。定冠詞のみ記されている。全ての「期間」は、意訳。「生きる」という語に合わせている。一生涯死の恐怖の中に生きている人であるならば、恐怖の内に人生を終わるのであり、開放されるというのは、つじつまが合わない。途中で開放されるならば、一生涯とは言わない。また、そんな信者は存在しない。
・「恐怖」→肯定的には、主を恐れる恐れ。否定的には、逃避。主から離れること。(聖書の使用例は、こちらが多い。)元は、十分な資源がないので逃げること。
2:16 (当然ながら→なぜならば)、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。
イエス様が助け出すのは、アブラハムの子孫であり、信仰者です。アブラハムの名が挙げられているのは、信仰による人々を示すためです。これは、いわゆる未信者が信仰を持って永遠の滅びから救われるという話ではありません。信者が神から離れることなく、信仰に歩むことを助けてくださるのです。これは、ヘブル人の置かれた状況に合わせた励ましの言葉なのです。
2:17 したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。
主は、神に関する事柄について、契約に対する忠誠を持ち、示されたことに対する忠誠な信仰を持つ大祭司となるために、全ての点で、兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで、民が犯した全ての罪の宥めがされています。
・「あわれみ深い」→契約に対する忠誠をもって行う、すなわち契約に対して首尾一貫している。形容詞。
・「忠実な」→信仰に対する忠誠をもって。形容詞。
・「罪」→複数、定冠詞付き。犯した罪全体。宥めは、犯した個別具体的な罪に対してなされる。内住の罪に対しなされることはない。
2:18 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。
主は、人となられて、肉を持たれたのです。それで、信者が肉を持つことの苦しみをご存知なのです。人は、肉があるために罪を犯すのです。主は、肉を持たれたことで、肉との戦いという苦しみを経験されたのです。主は、勝利されました。肉を持っていても、一切肉にはよらず、御霊によって歩むことができる根拠を与えたのです。それで、試みられている者たちを助けることができます。
ペテロ第一
4:1 キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。
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キリストは、信者が肉をもっているために、神の御心に従うに当たって肉を殺す苦しみがあることを示し、それに関して、キリストも肉において苦しみを受けられたのであリ、同じ心構えで武装するように勧めています。